憂鬱に現を抜かす、

命を絶つ勇気が出ない社会の贅肉 人生

早々躁

幸せになりたい

 

終電間際の特急に揺られ二本の足だけでなんとかブレないよう必死に画面を打つ。

これが今の私で在る。

 

後ろから覗いている貴方はヤッホー初の閲覧者

 

 

聞き飽きた車内アナウンスと揉まれ慣れた満員電車、大人になることがこういうことだと知ったのはつい最近だ。

 

夢はある、世界平和。みんなが笑顔で暮らせればいい

 

そんな風にざっくりと生きてきたので世の中が自分と全くもって解釈が合わない、知らない世界にきたみたいだ。

 

車内で足が縺れる。

持ち手がもっと多くあったらいいのに。

 

不幸なのか幸せなのかは己の考え方次第だとよく聞くが、まあそう思う。楽しいことが連立していればわざわざ身内が死んだ時の事なんて考えないだろう。私は考えない。

反対に不幸が乱立していれば、もう誰も死なないでくれと思うことぐらいしかできない。

 

この6年程、まあ驚くほど身内を亡くした。

幼少期を一緒に過ごした愛犬、名付け親から生き方を教えてくれた親戚、祖父母はどちらも居なくなってしまった。

 

こんな世の中で私は生きていたいのかわからない。でも身内を失う辛さを知ってもいる。

命の重さを知ってしまって、身動きが取れない。

 

死に損ねたことがある。

もうそろそろ3年が経つ。人生やり直したつもりだった。しかし2週間に1度は過る。

死ねたら、

誰か泣いてくれたのだろうか、笑ってくれたのだろうか。

 

人生で初めての恋人ができて1年半、私は度々死にたくなる。

 

ポップコーンのように跳ねた車内はいつの間にか各駅停車に変わっていた。

 

恋人は優しかった。幸せも不幸せも何方も教えてくれた、未熟だからお互い生きて学ぶことがたくさんあった。しかし価値観が違う

 

彼は生きていて、私は鬱病だ。

 

少々の停車時間に開放されたドアから冷たい空気が足元を震わせる。

 

私は生きていたいのかわからない。